田宮流居合術の修業の大事であります「礼節と心」を基本に、楽しみながら円満な人格と健康づくり、そして、会員自身の修養の為に学べる環境作りを目指します
新年明けましておめでとうございます。
田宮流居合術元和会としての活動も、17年目を迎え、会員皆様の技術が向上されていることに、まずは敬意を表したいと思います。
また、ここ数年は、コロナウイルス感染防止対策として、年間事業の縮小を図ってまいりました。
しかし、コロナ感染は収まる気配が感じられない中ではありますが、今後、皆様の健康と安全を配慮しつつ、事業実施の拡大を図ってまいりたいと考えております。
この歴史ある田宮流居合術は、妻木家が一子相伝にて継承してきた貴重な武術であります。この武術を大事に誇りを持ち田宮流居合術第十五代宗家として、正しい田宮流古流を守り伝えることに専念してまいる所存でございます。
本年も皆様にとっては、素晴らしい年でありますよう折念いたしまして、新年のご挨拶とさせていただきます。
令和6年1月吉日
田宮流居合術 第十五代宗家
元和会々長 妻木 和夫 元和
田宮流居合術は、今からおよそ400年前に居合の祖とされる林崎甚助重信の直門である田宮平兵衛業正によって興され、「美の田宮」「位の田宮」とうたわれた流儀である。
業正の嫡子の田宮対馬守長勝常円は、関が原の役、大阪冬の陣で池田輝政に仕え、目覚しい働きをしたことにより徳川家康に讃えられ、池田家からもらい受け、家康の第十子、浜松城主徳川頼宣の家臣とした。1619年に頼宣が紀州に移るや長勝も従い、その地で嫡子・田宮平兵衛長家に家督を継がせた。
三代目となった長家は1651年3月6日紀州藩士で柳生宗矩の門人・木村助九郎とともに召されて将軍家光の台覧に供し、懇ろな上意を賜った。このことは長家にとって栄誉なことであると同時に、田宮流という流派を全国に知らしめる一大行事となった。
長家の後を継いだのは四代目田宮三之助朝成であったがこれよりは病魔に見舞われ、五代目田宮次郎右衛門成道も病に倒れ、代々直系の血縁による継承を続けた田宮流は、門弟の中村是右衛門に譲らざるを得なくなった。五代目の後を受けた中村是右衛門は田宮流の名跡を絶やすことのないよう、その氏名を田宮千右衛門と改名したが、百年にわたってその道統を守り伝えてきた田宮流も思わぬところで、正統を失うこととなった。
現在この五代成道まで続いた直系の流儀を「古田宮流」と称している。
この途絶えた田宮流と並行して、徳川頼宣の次男・頼純が、紀州藩の分家である伊予西条藩に移った際、田宮対馬守長勝常円の弟子・江田儀左衛門によって、田宮流が伊予西条藩に伝えられている。
この江田儀左衛門を、(流祖)田宮平兵衛業正、(初代)田宮対馬守長勝常円のあとの二代目としての流派が「紀州田宮流」と呼ばれ、1800年に妻木順次郎元あやが八代目の道統を次ぐことになり、以来妻木家が一子相伝として、当代の宗家第十五代妻木和夫元和と続いている。
他に田宮平兵衛業正の高弟三輪源兵衛の流れをくみ、水戸藩の和田平助政勝が興したと通説でなっている「新田宮流」がある。
これらを総して「田宮三流」と呼ぶ。
田宮流流祖 | 田宮平兵衛業正 |
初代 | 田宮対馬守長勝常円 |
二代 | 江田儀左衛門 |
三代 | 三宅集意 |
四代 | 栗本半蔵 |
五代 | 三野伴五郎高満 |
六代 | 豊田仲左衛門 |
七代 | 豊田近左衛門 |
八代 | 妻木順次郎元貢 |
九代 | 妻木信平元 |
十代 | 妻木平之丞元茂 |
十一代 | 妻木恰元成 |
十二代 | 妻木興太郎元厚 |
十三代 | 妻木義雄元誠 |
十四代 | 妻木正麟元信 |
十五代 | 妻木和夫元和 |